今日も一日ご機嫌さん

晴れてても、雨が降っても、病気でも、今日も一日ご機嫌さん!

スピリチュアル的に充実して生きていきたいと思うときに、心がける 今とはなんだろうか?

スピリチュアル的に充実して生きていきたいと思うときに、心がけることはなんだろうか?

 

自然の中で生活する?神社、仏閣に行く?瞑想する?

どれも気持ちが落ち着くなら正解だろうが、今でないどこかに行かなければならないと思うなら不正解です。

 

つまり、

 

今にいなければならない。

 

「それはよく聞きますが、今にいるってどうしたらいいのですか?」

 

例えれば、温泉につかっているように、「(*´Д`*)~~ああっ」となるような気分になること。

 

「それじゃあ、能率が上がらないじゃないですか!何もできないじゃないですか?みんな“ああっ~”とか言ってたいら、この世はどうなるんですか!」

 

どうなるかって、間違いなくよくなるでしょう。

今みたいにみんな眉間にしわを寄せて、般若の面のようにというか、ゾンビのような顔をしていがみ合っている世界がこの有様ですよ?これより悪くなることがありますか?

 

それに、「自分が頑張っている!自分が何かを成しえている!」というのは傲慢です。

自分は何もしていません。何もできません。

 

あなたは、あなたの心臓をうごかしていますか?あなたの心臓はあなた以外の力で動かされているのであり、あなたの努力なんてのは、これっぽっちもありません。

あなたは、この世では無力なのです。

 

あなたは1秒後に死ぬかもしれません。死なないかもしれませんが、でもそれすらわからないのです。

 

そんなあなたに何ができるのですか。

 

この世の種明かしをすると、今あなたが「あなた」と自覚しているものは「あなた」ではありません。肉体の「あなた」は、本来存在する「意識」の残りかすみたいなもので、いわば幻想です。イタチの最後っ屁みたいなものです。

 

「失礼な!でも、もし“最後っ屁”なら、人間の尊厳も何もないじゃないですか!それじゃ、人を殺してもいいんですか?まるで○○真理教じゃないですか!」

 

そうですね。刹那で無気力な感じがします。でも、“肉体が自分である”という発想では、私たちはパワーが出てこないのです。“肉体が終われば私たちは終わる”という発想が真の刹那主義です。(お釈迦様が言われた刹那という言葉は本来こんな意味ではないのですが)

 

確かに肉体を粗末にしてはいけません。しかし、現在社会は肉体を重要視しすぎです。本末転倒しています。

 

私たちは肉体を使用していますが、これは時間的・空間的制約という特殊イリュージョン“地球お化け屋敷”を楽しみたくて遊んでいるのです。

 

それを本来の姿と思って本末転倒している方があまりにも多く、地球意識(テラ・ガイヤ)は困っています。

 

もう、このお遊びを卒業して、次の学びにテラ・ガイヤは行こうとしています。

そのポイントが「今にある」ということです(ほら、話が戻ってきました)

 

「では、ぼぉ~っとしてればいいんですね?」

 

いい悪いで論じることではないんですが、気分がイライラしたり、不安になったりするのならば、一呼吸おいてコーヒーが好きならコーヒーでも飲んで、「ふう~っ」て言っているほうがテラ・ガイヤにとって迷惑をかけない行為でしょう。

 

一足飛びにはいかないだろうが、その「ふう~っ」という時間を多く重ねていって、今にあるコツをつかんでいけば、人生は大きく変化していることに気が付きますよ。