現実は現実か?
私たちは、現実世界に生きていると思っている。
本当だろうか?
私は、生きているのか?
私とは何なのか?
「私とは、何か?」と常に問えといったのは、ラマナ・マハリシである。
この問いに答え続けると、「私」は「私」が何か答えることができないという結論に達する。
「私」が「私」を理解することができない。答えられない。
現実だと思っていた事柄は、私の脳内のたわごとであり、
実は私の脳という物質もあるかどうか疑わしい。
ラマナ・マハリシは「真我」のみ実在という。
今、「私」と考えている、この「私」は、「偽我」であり、蜃気楼である。
以下は私が大好きな久保栄治さんのブログからの引用です。
私はラーマクリシュナの教えが好きである
ラーマクリシュナの教えは難解であり、計り知れないが、何故か私は好き
である。ラーマクリシュナなどの教えは思考やマインドを超えている純粋
精神の目から述べており、それに反して、私達人類の目とは条件付けら
れている脳や同じく思考の記憶の反応の目なので、私達人類の脳や記
憶では理解することは出来ないことだろう。しかしながら、敢えて私の間違っている観念かも知れないが私なりに理解する考えを述べさせて頂きたい
肉体は神のものである。神が生きている。
脳は神のものである。神が生きている。
五感、知覚、記憶、認識、思考、心、理性は神のものである。神が生きている。
行為は神のものである。神が生きて行為している。
自己・自我・私は神のものである。神が生きている。
個性・個我・個人・現在のパーソナリティーは神のものである。神が生きている。諸体も、自我体も未顕現の高級諸体もコーザル体も、観照者も個別的霊
魂も神のものである。神がこの肉体・脳や諸体や自我体やコーザル体や霊魂を使って、私・自己
として生きておられる。この悩む私は神のもの、神がそれぞれの私として生きておられるのである。
私・自己・・・この個性ある私は誰のものであろうか?それは神のものである。
この特色ある個性、才能、特色、個別性は神の全体性である。
その肉体や諸体を私のものだと思っている「自己」とは神の演技。神のもの。この現在のパーソナリティー・私とは神のもの。神の演技である。
神が私として行為し、悩み、喜び、悲しみ、恐怖し、望ましい出来事や望ましくない出来事に遭遇し、それぞれの人生を生きておられる。
神が自己・私として肉体と結合し、肉体から離れ輪廻している。
全ての人は神である。
神はその私を使って生きて、意識し、行為している。行為しているのは現在の私ではなく、神であり、その起こっている行為を
「自分が行為していると実感している現在の私」とはその起こされている行為が生み出した記憶であり記憶体の反応なのである。
怒り、悩み、心配し、懊悩し、希望し、絶望し、嫉妬やあらゆる戦略や戦術を持つその人、その人の考え、思考や概念、観念も神が起こしている。
それらの思考や感情とは即ち私であり、その思考が「私が思考している」
と主張している。私達が考えているような個人とは存在していないのである。これらは起きていること、起こっていることであり、私が起こしているのではなく、その正反対に私こそが起こっていることなのである。
この起こっていることとは、起こっている自己・私にとって、それらは、良いこともあり、良くないこともあり、歓迎したいこともあり、歓迎したくないことでもある。
実に内も外も神のものである。私のものはなにも無く、私自身も無い。
全ては神の中にある。起こることは起こるように起こり、起こらないことは起こらない。
行為はこの私が為しているのでなくて行為は起こっているが、行為してい
るのは私ではなく神である。同じく思考や心は起こっているが、思考や心は神のものであり、思考や、
意識とは神のものである。私が思考しているのではなくて、脳が受信し、脳が発している思考が即そのまま私という自己意識なのである。
私が考えているのではなく脳に起こっている思考が私なのである。神という純粋精神からの思考や感情や意識が同じく純粋精神である肉体や
脳や諸体を通じて受信されている。そして送信されている。そしてその思考や心とは即「私という観念」なので、私というその観念の記憶は「私が思考して、私が行為して、私が人生を生きている」と錯覚する。
しかしながらその錯覚している現在のパーソナリティーという自己・私とは継続している記憶であり、その記憶とは私という自己意識である。
それ故に私とは神の演技であり、神がその私・自己を使って生き、行為し、演じておられる。
誰も行為していない。行為は起こっており、その起こっている行為が「行為している私」というマーヤであり、行為を継続させている。誰も思考していない。思考は起こっており、その起こっている思考が「思考している私」という錯覚を継続させている。
私はいない。誰も分離していない。マインド「私という観念」が私とあなたの分離という錯覚である。神聖なるマーヤが「私という観念」を引き起こし継続させているが、実際は私とはあなたなのだ。分離している私とは神聖なるマーヤなのだ。
そしてこれを観照する純粋精神は心臓の中にあって、静寂・観照として見
ていることだろう。以上の事は常識や理知的な思考では把握出来ず、久保栄治も理知を使
って推測するのみである。
追伸
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